願い橋(続き)

「ひさしぶり」
少し間があった。
「もしもし」
記憶のひだに刻み込まれていた彼女の声の断片は発芽したみたいに、ゆっくりと僕に降りかかった。
「当たり負けしない、デカい車の調子はどう?」
沈黙が横たわった。
「ハルキさん。」
彼女の探り当てた自信に満ちた声。
「覚えてた?」
「うん。ぎりぎり、だったけど。」
僕らは、笑った。
彼女の聖歌隊みたいな笑い声が僕の耳に届いた。

僕らはお互いの近況を話した。
彼女の喋り方、アクセント、イントネーション。すべてが懐かしかった。
彼女はアメリカに留学し、博士号を取り、何度か帰国と出国を繰り返し、また次の留学を目指していた。
彼女が何を求めているのかさっぱりわからなかったが、ステップを踏み続けている事だけは確かだった。
僕は、僕はどこに居るのだろう?どこに向かおうとしているのだろう?
自分でもさっぱりわからなかった。

「でも、どうして急に電話くれたの?」
一通りの近況報告のあと、彼女が聞いた。
どうしてだろう?孤独だったから?夜が深かったから?一人だったから?何かを期待した?

「願い橋をね、通ったんだよ。昨日。あそこを通る度にね、いつも思い出してた。昨日も通ってさ。
なんとなく、ただなんとなくね。思い出したんだ。どうしてるかなって。
最後のデートのとき、教えてくれただろ。願い橋のこと。あの橋を渡る時に願い事をすると、叶うんだって。
最後に会った時の願いは、残念ながら叶わなかったけど、今でもたまに通るんだ。
あの場所って、志賀島に行く時くらいしか通らないし、最近は都市高速も出来て、
ますます通らなくなったんだけど、でも、なんとなくね、遠回りしてでも通ってしまうんだよね。
特別な場所なんだ。」

嘘じゃなかった。願い橋は特別な場所だった。橋を渡るたびに彼女を思い出し、
最後に会った夜を思い出し、渡り切るまで彼女の思い出に浸った。
たとえ他のあらゆる時に、彼女を思い出したりしなくても。


「で、昨日は何の願い事をしたの?」
彼女は僕の感傷をさらりと流した。夜に暖かかった。
「今夜、直子の声が聞けますようにって。」
僕らはまた笑った。
一瞬だけど昔に戻ったような気がした。
彼女はまだ大学生で、僕はまだ夢をもっていた。僕らは穏やかな親近感の中に居て、暖めあった。


「先週、野球を観に行かなかった?」
彼女が聞いて僕は曖昧に返事をした。
「福岡ドームに。私も行ってたのよ。大型スクリーンに良く似た人が写ってたわ。
もしかしたら、ハルキさんなのかなって。まだ、福岡に居るんだなって。」
「行ったかもしれない。先週でしょ。僕かもしれない。手を振ってくれたら、良かったのに。」
それは僕であるはずがなかった。この2年野球観戦はしていない。僕の中で何かが期待を始めた。
「探したのよ。私の座ってる場所の近くだったから。席を立って歩き回ったわ。」
話の流れは核に向かっていた。僕らは逢おうとしている。
「同じ場所に、居たのかな?」
「もしそうだったら、奇跡に近いわね。」
「もし本当にそうだったら、運命的だよ。」
「運命ね。良い言葉だわ。ハルキさん、全然変わってなかった。一瞬だったけど、すぐにわかったわ。」
「そんな事はない。歳相応になった。ここ3年で倍くらい歳を取った気がする。直子は?変わりはない?」
「変わったわよ。あれから何年も経つのよ。昔みたいに若くないわ。あの頃は、随分迷惑かけたわね。
たくさん我がままを言った気がする。子供だったのね。随分あなたを傷つけたわ。」
「自覚したんだ。進歩したんだね。でも、安心して。僕は一度だって傷ついたりしてないから。」


結局僕らは、「逢ってみる?」という台詞にたどり着けずに、オブラートの回りをぐるぐると回り続けた。
ただ、逢うことが無意味だということは、二人とも分かっていた。逢っても、同じことの繰り返しなんだ。

僕らは改めて認識する。運命的にずれているという事を。僕らは一度は寝るかもしれない。
二度目もあるかもしれない。でも、三度目は確実に無い。どちらからも連絡を取らなくなり、
元居た場所に帰って行く。


「古い恋人」に電話をかけたのは特に理由なんてない。
ただ深い夜に、懐かしい声を聞きたかっただけだ。

僕らの溝は、歳を重ねたお陰で少しだけ埋まった気がした。
歳を取るのも悪くないと思った。
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by haru_ki_0207 | 2005-04-16 00:36 | ショートストーリー  

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