SNS(その2)鮎川さん

◆2鮎川さん
私は一日の始まりを、スタバで過ごしている。これはいつもの習慣。タンブラーをバックに入れて家を出て、開店したばかりの店内に入る。客もスタッフも僅かだ。知った顔のスタッフ。でも必要以上の挨拶をしたりはしない。スタバカードで支払い、タンブラーにコーヒーを注いでもらう。そしてショーウインドウの一番端の、外からは目立たない場所に座る。外を見ると急ぎ会社に向かう人の群れが見える。ショルダーバックを小脇に抱え、ハイヒールをアスファルトに突き刺しながら歩くOL。ヨレヨレのスーツを引きずるように歩いている若いサラリーマン。新調したばかりのスーツを着心地が悪そうに歩く中年の男。交差点で信号待ちをしている人たち。見知らぬ者同士が、一堂に横一列にたたずんでいる。その組合せは、天文学的数字のはずなのに、運命的だと感じているひとは誰も居ない。そして信号が変わると一気に横断歩道になだれこむ。工場のような、いつもの風景。
かつては私も、この中の一人だった。そして、いつかはこの中から抜け出したいと思っていた。単調で、同じ時間に同じ場所に向かって歩き、同じことを繰り返す世界から、一日も早く抜け出したいと願っていた。私を支配する全てのものから自由になりたいと思っていた。そしてその機会は突然やってきた。鮎川さんと知り合ったのが三ヶ月まえだから、丁度二ヶ月前の事だ。

「僕の愛人になってくれませんか?」
何度もメールを交わして、何となく良いなと思い始めて、価値観みたいなものも合って、何よりも彼が書く穏やかな文章が気に入って、気持ちが傾いてきて温めて、いや温めあって、運命的なものも感じ始めて、どんどん加速していって、お互いの顔写真を交換したりして、その後の最初のメールがそれだった。正直、最初はがっかりした。愛人?恋人ではなくて愛人?
「まだ、会ってもいないのに、いきなり愛人だなんて……」
「ごめんなさい。大変失礼しました。でも、僕、子供が出来ない身体なので……」

その素直で馬鹿正直な男が、鮎川さんだった。
鮎川さんは、四十五歳で独身。写真を見たけど、とても四十五歳には見えなかった。とはいえ、二十八歳にも見えなかった。何処かで、過ぎてしまったのだろう。若いという山を越えて、老いという坂道を歩き始めた。でも、何処で過ぎたのかは、わからない。

「どうして、子供が出来ないの?」聞いてはいけない事なのだろうけど、前に進むしかなかった。
「精子が少ないみたいなんだ。見合いして、結婚して、でも子供が出来なくて、調べてもらってわかったんだ。努力したけど結局は無理で、そしたら妻の実家から一方的に離婚させられた。だから、ちょっとはお金を持っていてる。でも、結婚は無理で、だから、恋人も無理で、恋人ってその先に結婚があるから恋人でしょ?だから……」
新説だと思った。結婚があるから恋人。独身同士の恋愛でも、結婚がないなら愛人?
「鮎川さんって、正直な方なんですね。ごめんなさい。変な事、聞いてしまって。嫌な思いをしたでしょ?」
「いや、良いんだ。それに、こんなことは、最初に言っておかないと、後からだと言いにくくなるし」
「で、いつ会いましょうか?待ち合わせはわかりやすい場所がいいな。私、方向音痴だから」
■野イチゴ
初めてのデートは、鮎川さんの住んでいるマンションだった。海の近くのタワーマンション。隣の市の、誰でも知ってる場所だった。
エントランスホールには、制服を着た受付嬢が二人いて、ガードマンが一人いた。天井は高く、大きなシャンデリアが床を照らしていた。壁は大理石で、所々にポップアートが飾られていた。エントランスホールに面してクリーニング店と美容室、コンビニまであった。そしてその奥にセキュリティーシステムがあり、鮎川さんの部屋の番号を押すとインターフォン越しに「はい」という声がした。初めて聞く鮎川さんの声。低くて心地良かった。何故かちょっと安心した。カメラを見ずに「ミチルです」と言うと、自動ドアが静かに開いた。さらに奥に進むとエレベーターホールがあり、さっきのエントランスホールよりもシックなデザインが施されていた。そして重厚な扉のエレベーターが三基、一番奥にあった。そのエレベーターに乗り込むと二五階の鮎川さんの部屋まで、あっという間に着いた。

玄関のドアを開けると、鮎川さんが出迎えてくれた。初めて会う鮎川さんはとても穏やかで、優しい笑顔で、でもとても緊張していた。私の方がリラックスしていたのかもしれない。
リビングのドアを開けると、直ぐに大きな窓が目に飛び込んできて、海が一望出来た。水平線がくっきりと見えその手前を大きな船が横切っていた。なんだか少し、自分が偉くなった気がした。私は促されるまま、リビングの真ん中にあるソファーに座った。鮎川さんは大きなアイランドキッチンの前に立つと、
「ここは、慰謝料として、もらったんだ」とコーヒーメーカーに豆を入れながら言った。まるでコーヒーメーカーに説明しているみたいだった。
「眺め、良いですね。すごい雲」
私は、水平線の上に湧き上がった積乱雲を見ながら言った。だけど、それに対する答えは何もなかった。やがてコーヒーの良い香りが部屋中を包み、そうする事が前もって決められてたかのように、沈黙が訪れた。ただ、うるさく動いているのはコーヒーメーカーだけだった。
 完ぺきな沈黙が訪れると、鮎川さんはコーヒーを持って私の斜め前に座り「ここに来て五年になる」と私と同じ方向を見ながら言った。積乱雲は怒ったように天に向かって成長を続けていた。私は海を見つめる鮎川さんの横顔を見た。初めて鮎川さんの顔をしっかりと見た。そして五年も経つんだと思った。
「このマンションには新築で、住み始めたんですね。有名な建築家が設計したんですよね。テレビで見たことあります。こんな高価なマンションに住める人が居るんだなって、いつも思ってました」と私は言った。五年前だと私が二三歳の時だ。若かっただけで、今とやってることは何も変わらない。
「高いよ。びっくりするくらい高い。でも、金なんて、汗水たらせば貯まるものではない。やり方を知っている人のところにしか入ってこない。最低なのは、僕がその連中から恩恵を受けているということだ」相変わらず鮎川さんは海を見ている。毎日見ているだろうに。
「私も、受けつつありますけど」と私は言った。言うべきじゃなかったかもしれない。鮎川さんは、その日初めて私を、ちゃんと見た。真っ直ぐな視線だった。まるで私がそこに居ないような無遠慮とも取れる強い眼差し。
「そうだな」と鮎川さんは言った。しばらく間があり、
「そうですよ」と私は答えた。その時初めて二人の目があった。
それから直ぐ鮎川さんは、何かに解き放たれたみたいに、大きな声で笑った。
「そうだな。まあ、そういうことだな。他にも、色んな物をもらった。あるんだな。金持ちには。こっちが要求もしないのに、いくらでもくれたよ」言い終わると鮎川さんは再び私をじっと見つめた。眼差しが痛くて、ちょっと恥ずかしかった。私は目をそらせ、雲を見ながら「たとえば?」と聞いた。
「現金。預貯金。株券。賃貸のマンション」鮎川さんも雲を見た。
「マンション?ここ以外で?」
「ああ、六階建のこぢんまりとした鉄筋コンクリートのマンションだけど」
「どこにあるんですか?」
「割と良い場所だよ。ここから、歩いて二十分のところかな」
「そこ、空室あります?」
「あったと思うけど」
「そこ、一つ貸してください。格安で」
「そんなの、無料でいいよ」
「無料で?」
「だって僕たち、これから契約をするんだから。愛人の契約」
「そっか。そうでしたね。気持ち、関係ないですよね?」
「気持ちは、あるよ。でも、線を引いておかないと、ダメになるから」
「ダメって、何が?」
「僕たちの、これからの関係が」
「そうかしら」
「そう、経験的にそうだよ」
「そうなんだ。大人ですね」鮎川さんは、下を向いてちょっと寂しそうな顔をした。寂しそうというか、困ったような、残念そうな、そんな顔。でも、その顔を私は好きになった。

「では、大人の話しをしよう。そのマンションの一室と、月二十万でどうかな?」
「そんなに、たくさん?」
「たいしたことはないよ。マンションの家賃収入があるし。その位が相場なんじゃないかな」
「こういうのも、相場ってあるんですね」
「どうかな。よくわからないけど」鮎川さんはますます、困った顔になった。
「それで私は鮎川さんに何をすればいいのかしら」
「週に一度、僕が望む日に、君を自由に出来るというのはどう?」
「週に一回?」
「そう、週に一日」
「なんだか、本当の愛人契約みたい」
「本当の、愛人契約をするんだよ」
「じゃあ、今週はいつにする?」
「今日なんて、どうかな?」
「良いわよ。今日これから、明日の朝まで」
「では、これから君のものを買いに出かけよう」

鮎川さんは子供が出来ない身体でも、単に精子が少ないというだけで、勃起が不全だったりするわけではなく、普通に、いや、それ以上にセックスが出来た。私もセックスの経験は普通の人以上にあるつもりだけれど、鮎川さんのやり方はとても丁寧で、深くて、私の想像を超えていていた。
私達は、鮎川さんの前の奥さんの実家のお金で、結ばれたわけだけど、気になったのは最初だけで、その日の夜、鮎川さんの寝顔を見ながら、私は会社を辞める決心をしたんだ。

人の流れが、まばらになって、歩道を歩いている人種も変わってきた。会社に向かっているというよりは、何処か別の目的があって、そこに向かっているという人々。上を向いて歩いている人。私の優越感も薄れていった。
さて、買い物に行こう。今日は鮎川さんとの約束の日だ。結局彼は、一週間に一度と言う約束を律儀に守っている。私としては、どうせ暇なのだから、別に週に何度でも構わないのだけれど、そこが鮎川さんの真面目なところだ。週に一度と決めたら一度なのだ。今日は、何か美味しいものをたくさん作ってあげよう。でも、仕事を辞めて、貯金もしなくていけないから、そんなに贅沢は出来ない。愛人の手当として貰っている二十万は生活費と貯金に消えて行ってしまう。このままでは、何も変わらない。次のステップが必要だ。何か新しい手法。新しい生き方。新しいプラン。そんなことを考えていると、あっという間に、二時間が過ぎた。私はちょっと痛くなったおしりをさすりながら立ち上がり、すっかりメンバーの変わってしまったスタバをあとにした。
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by haru_ki_0207 | 2011-02-27 22:42 | SNS  

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