◆9 真実
柏田は一人だった。私がコーヒーを勧めると、それを両手で抱え込むようにして、ズルズルと音をたててすすった。金を持っていても、育ちが良くないのだ。その点、アユミには品があった。小さな頃から良い環境で育つと、いつのまにか品が作られる。継承するものなのだろう。私には継承するべきものが何もないけど。
「良かったよ」と柏田は言った。
「何が?」と私は聞いた。
「旅行。天気。全て」と柏田は言った。
「アユミの若さ、身体」と私は付け加えた。
柏田は笑った。堪えても、あとから湧き出てくる。そんな笑い方だった。
「良かったよ」ともう一度言った。
「そう?」
「ああ、君の提案に乗って、本当に良かった。これは約束の金だ」
柏田は、抱えてきた紙袋から、札束を出した。
「空港から直接来たんだ。そういう約束だったからな。土産は、後日、アユミと持ってくるよ」そう言うと柏田はテーブルの上にその四角い現金を積み上げた。百万円の束が五段で二列。一千万円。テレビでなら見たことがある。よく見慣れた風景。でも、実際に目にするのは初めてだった。
「私のレクチャーは役に立ったでしょ」と私は言った。
「ああ、最初から最後まで」と柏田は言った。
最初というのはセックスの事で、最後というのはプロポーズの言葉だ。
「あなたという人物を把握するのに、最初はああする方が、手っ取り早かった。よく、解ったわ。あなたのこれまでの色んな事が。計画も立てやすかった」
「その後の段取りも、申し分なかったよ。今まで俺は、いかに仕事人間だったのか、痛感した。苦手な事を避けてきたのだろう。ある部分で俺は無能な人間なんだ。君が居なかったら、手も足も出なかった。何処から始めたらいいのか、さっぱり見当も付かなかった。一緒に旅行に行くというのは良いアイデアだった」
「私の喘ぎ声を聞いて、勃起したでしょ」
「ああ。シナリオ通りだったな」
「あれが始まりの合図。アユミは私たちがキスしたり、抱きあったりするのをみて、理性を失った。だから、あとは、簡単だったはずよ。誰がやっても上手くいく。あなたを受け入れる準備も事前にしておいた。年上の男性がどれほど経験豊かで濃厚で安心か、さり気なく確実に、事あるごとにアユミの深層心理に刷り込んだ」
「立派な商品パッケージだな。何処にでも飾って置ける。じゃあ、やっぱりあれは作り話しなのか。例の父親から強姦された話し」
「本当よ。全部本当の話し。酔った勢いというのは嘘だけど。あの男はしらふで私を抱いたわ」
柏田は私を見上げて、それから下を向いて、首を横に振った。
「とにかく、客としてこれを置いて帰る。受け取ってくれ」と言って、テーブルに積んだ札束を私の前に押しやった。
これまでの私の人生の中で実際に目にした事もない高額な現金。私の殺風景な部屋には場違いなものだった。でももはや、織り込み済みの金。たいして興味も感慨もなかった。
「じゃあ、もうひとつ、これからのビジネスパートナーとして、頼んでおいたリストを頂戴」と私は言った。
柏田は、ビジネスバックから封筒を取り出して私に差し出した。私はその一枚の紙を眺め「いくらでもいるのね。金持ちって」と言った。
「ああ、いくらでもいる。だけど、たいていは土地を持っていたり、遺産を受け継いだりしている連中だ。俺くらいだよ、裸一貫で稼いだのは」と柏田は言った。
「そこだけは尊敬するわ。だから、あなたを選んだのよ」
「鮎川ではなく、俺だったんだな」
「勘違いしないで。鮎川さんは不向きなだけよ。たった一回私と寝ただけで、あなたは鮎川さんを越えられないわ。足元にも及ばない。あなたと寝たのは、レクチャーのためだけの行為。アユミをあなたに夢中にさせるために、あなたには訓練が必要だった。あなたのスキルと経験の無さは、やる前からわかっていた。私の男はあくまで、鮎川さんよ。何を外しても必要なの。あたなの代わりはいくらでもいるわ。だから、鮎川さんを馬鹿にするような言い方を私は許さない」
「そう、つっかかるな。君には感謝している。金には代えられないくらい、貴重なものだ。この金でも安いと正直思っている。この年で諦めていたものが、手に入ったんだからな。それに良いビジネスモデルだとも思うよ。高収入中年男性と若くて綺麗な女子とのマッチング。俺と君が組んだら、大きな収入になる。俺は今まで以上の生活が出来て、君は鮎川と十分な暮らしが出来る。適齢期をとうに超えた不幸な中年童貞を救える。良い生活を夢見るけど、出口の見えない若い女性も救える。誰もが幸せになれる。誰も不利益をこうむらない。少子化に歯止めがきく。ブライダル産業にも貢献出来る」
「結婚式場からのマージンは折半で良いわ。紹介してもらった男からは、私が七割もらうけど、それで構わないわね?教育費込みで。身体を張ってるんだから、それでも少ないくらいよ。あなたは、知人を私に紹介するだけ。楽なものだわ。私がリスクと労力を負うの。問題は無いわよね?それと、マサト君への手切れ金、私が身体で立て替えてるの。今度、持ってきて頂戴。百万円。アユミと土産を持ってきた時に忍ばせておいて」
柏田は、私の提案が上手く理解できない様子だった。しばらく私を生気の無いよどんだ目で見ていた。ようやく理解できると今度は私を、汚い物でも見るみたいに無遠慮な視線で下から上まで舐め上げ、それが終わると「ああ。異存はないよ」と言って、再び下を向いた。柏田は私の足を見ていた。長い間、海を漂流して、ようやく海岸にたどり着いた流木でも眺めるみたいにじっと。そして自分を無理やり納得させるかのように何度も頷くと、ゆっくりと顔を上げて、私を真っ直ぐ見た。そして口を開いた。
「ひとつ、聞いても良いか?」まるでこれが最後の別れとでも言うかのような台詞。
「何かしら?」と私。答えるつもりはないのだけれど。
「このアイデアを思いついたのは、いつなんだ?こんな手のこんだ事をどうやって考えた?」
「それは、どういった好奇心からかしら。ビジネス?それともプライベート?」
「ビジネスだ」と柏田は言った。この男の頭の中は仕事の事しかないらしい。結婚を金で買う男だ。次の仕事にでも役立てようというのだろう。見上げた精神だ。こうでないと、金は貯まらないのだろう。だけど悲しい男。愛さえも、買う男。そして買えてしまう現実。本当に悲しいのはその現実かもしれない。
「あなたに見せたでしょ。私とアユミが交わしたメールの全てを。最初の出会いから最後の一行まで。あなたに、アユミがどんな女であるかを知ってもらうために。『もう、私たち、無理かも……』というメールが送られてきたときよ。私はその夜、鮎川さんに抱かれながら思いついたの。何かが降りてきて、私にとりつくみたいに、ひらめいたのよ。アユミを利用することを。ひどい女。そう思ってもらって、構わないわ。ただ一人の大切な友達を騙すようなことをして。でもね、私は誰も不幸にはしていないわ。みんなを幸せにしてる。マサト君はアユミと別れて自由になりたがっていたし、アユミは結婚をして安定を欲しがっていた。あなたは若くて無垢で、結婚できる女なら誰だってよかった。なのに誰も何もしなかった。動かず、指をくわえてじっと見ているだけで、人生を傍観していた。そんな自由さえ奪われた者が居るのに。だから私が動いたの。代わりに必死になって。動きながら考え、考えてはまた動いた。動かない事には、状況が変わらない事だけは、わかっていたから。上手く行ったわ。上手く行ったでしょ?笑っちゃうくらい。あなたはノコノコと金を持ってくるし、アユミは幸せなメールを何通もくれた。マサトくんは心配性のアユミから解放されて、何人もの女とつきあってる。傷ついたのは、私一人よ。私一人が動き回って、傷ついた。これでも傷ついてるの。理解出来ないでしょうけど。これでもぎりぎりでやってるの。限界に近いの。それにね、あなたは誰も不利益をこうむらないと言うけど、私は大切なものを失ったの。あなたにこの気持ちがわかる?」
私が本当に心から欲しかったもの。途中で気が付いた。あの温泉の夜。いや、最初から分かっていたのかもしれない。ただ、気が付かないふりをしていただけだ。そんなはずはないと。でもダメだった。目を背ければ背けるほど、それは目の前を覆った。私の心にガンガンと打ち付けた。隠せば隠すほど、くっきりと姿を現し、止める事が出来なかった。そして後戻りも出来なくなっていた。
出来る事なら、今、全部壊してしまいたかった。全部壊して、私は取りたかった。私の本当に欲するものを、初めて心から欲しいと思ったものを、鷲掴みにして、我が物にしたい。でも、出来なかった。何故?それほどまでに律儀に義理を通さなくてはいけないものがあった?私は何を選び、何を捨てたのか。結局はこの連中と同じだ。いつの間にか傍観していた。流れに身を任せてしまった。
私が本当に欲しかったもの。それを、柏田。あんたは金で手に入れた。全てを叩き付けたかった。全部、振り出しに戻したかった。私は、積みあがった札束を全部、床に叩き付けたかった。叩き付けて、返してほしかった。私の大事なものを。
アユミ。アユミが欲しい。アユミを返せ。綺麗なアユミ。綺麗なだけじゃない。繊細で傷つきやすく、壊れてしまいそうなくらいもろいアユミ。私が包んであげたかった。私から溢れるもの全てで覆い尽くしてしまいたかった。アユミの全てを征服したかった。二人でドロドロになりたかった。アユミの心の糧になりたかった。愛し合いたかった。アユミ。私はあなたを裏切った。こんな金の為に。こんなものが欲しかった訳じゃない。見たこともないような現金だけど、アユミと取って変わるものではない。どうしてこんなことをしたんだろう。間が差した訳ではない。流れに身を任せた訳でもない。ただ、こうなってしまった。逆らえなかった。気が付くのが遅かった?全ては承知していたはずだ。心のどこかで、仕方ないと思っていたはずだ。止めようと思えば止められていた。でも、止めなかった。私の中にある汚れた心がそうさせた。どうしようもなく汚れてしまった心。淫らで逆らえない弱い心。ずっと私を支配し、服従させていたもの。わかっている。わかっているんだ。ずっと隠し通せるものではないことも。あの男の段取りが上手く行かなくて客が取れず、あの男が私を抱くとき、私は、深くイッた。あの男のやり方は武骨で乱暴で、優しさのかけらもなかったのだけれど、あの男に触れられると、身の毛もよだつのだけれど、あの男の指が膣の中に挿入された瞬間、私はどうしようもなく淫らになり、直ぐにいってしまう。それがなぜだかはわからない。最初にオナニーをしているのを見られてしまったからかもしれないし、ただ単に私の身体が変態だからなのかもしれない。だけど、あの男の指を私は欲した。心では嫌だと言っているのに、身体がそれを求めた。
深呼吸をした。僅かな新札のにおい。私はその上に手を置いた。暖かかった。ぬくもりがあるんだ。気持ちの無いものでも、暖かいんだと思った。込みあがってきていたものが次第に収まった。そしてゆっくりと降りて行った。
私は大切なものを失ってしまった。永遠に。あとには何が残ったのだろう?私が得たもの。私が手に入れたもの。あの四十をとうに超えて、理不尽な理由でぼろ雑巾のように捨てられた種無し男。世間の荒波に耐えられず、傍観する側に回った男。鮎川さんだけだ。鮎川さんのぬくもり。鮎川さんの心。年よりも若く見えるし、何よりも私を感じさせてくれる。私を快楽へ導いてくれる。優しく、そしてきっちりと。そして助けてくれた。あの地獄のような毎日から。ただ己の欲望を満たすだけの稚拙で乱暴で自己中心的な性行為から。汚れのこびりついた私の人生の中で唯一、淀みない純粋なものを与えてくれた。鮎川さん。麻薬のようにとりつき、澱のようにこびりついたものを、丁寧にはがせてくれた鮎川さん。鮎川さんが必要なのだ。あの男から本当の意味で逃れるために。あの男が私を触れる手から逃れる為に。私のドロドロとした本能を永遠に封じ込める為に。
柏田を見た。うなだれて、さっきから動こうとしない。私はこの男とも寝た。これから、私は何人の男と寝るのだろう。何人の男と、気持ちの無いセックスをするのだろう。鮎川さんが全てを知った時、それでも私を求めてくれるだろうか。本当の私を知った時、あの人は私を全部受け入れてくれるのだろうか。きっとあの人は求めてくれるだろう。私の想像の枠を超えて、私がちっぽけな存在になるくらい大きな愛で私を包んでくれるだろう。それが私にはわかる。それが鮎川さんなんだ。それが、私達が出会った理由なんだ。会いたかった。無性に会いたくなった。今すぐ包まれたかった。今、会いたい。あって許されたい。全てのものから。そして求められたかった。契約を破棄し、私をここから連れ出してほしい。どこか遠いところへ。
柏田は一人だった。私がコーヒーを勧めると、それを両手で抱え込むようにして、ズルズルと音をたててすすった。金を持っていても、育ちが良くないのだ。その点、アユミには品があった。小さな頃から良い環境で育つと、いつのまにか品が作られる。継承するものなのだろう。私には継承するべきものが何もないけど。
「良かったよ」と柏田は言った。
「何が?」と私は聞いた。
「旅行。天気。全て」と柏田は言った。
「アユミの若さ、身体」と私は付け加えた。
柏田は笑った。堪えても、あとから湧き出てくる。そんな笑い方だった。
「良かったよ」ともう一度言った。
「そう?」
「ああ、君の提案に乗って、本当に良かった。これは約束の金だ」
柏田は、抱えてきた紙袋から、札束を出した。
「空港から直接来たんだ。そういう約束だったからな。土産は、後日、アユミと持ってくるよ」そう言うと柏田はテーブルの上にその四角い現金を積み上げた。百万円の束が五段で二列。一千万円。テレビでなら見たことがある。よく見慣れた風景。でも、実際に目にするのは初めてだった。
「私のレクチャーは役に立ったでしょ」と私は言った。
「ああ、最初から最後まで」と柏田は言った。
最初というのはセックスの事で、最後というのはプロポーズの言葉だ。
「あなたという人物を把握するのに、最初はああする方が、手っ取り早かった。よく、解ったわ。あなたのこれまでの色んな事が。計画も立てやすかった」
「その後の段取りも、申し分なかったよ。今まで俺は、いかに仕事人間だったのか、痛感した。苦手な事を避けてきたのだろう。ある部分で俺は無能な人間なんだ。君が居なかったら、手も足も出なかった。何処から始めたらいいのか、さっぱり見当も付かなかった。一緒に旅行に行くというのは良いアイデアだった」
「私の喘ぎ声を聞いて、勃起したでしょ」
「ああ。シナリオ通りだったな」
「あれが始まりの合図。アユミは私たちがキスしたり、抱きあったりするのをみて、理性を失った。だから、あとは、簡単だったはずよ。誰がやっても上手くいく。あなたを受け入れる準備も事前にしておいた。年上の男性がどれほど経験豊かで濃厚で安心か、さり気なく確実に、事あるごとにアユミの深層心理に刷り込んだ」
「立派な商品パッケージだな。何処にでも飾って置ける。じゃあ、やっぱりあれは作り話しなのか。例の父親から強姦された話し」
「本当よ。全部本当の話し。酔った勢いというのは嘘だけど。あの男はしらふで私を抱いたわ」
柏田は私を見上げて、それから下を向いて、首を横に振った。
「とにかく、客としてこれを置いて帰る。受け取ってくれ」と言って、テーブルに積んだ札束を私の前に押しやった。
これまでの私の人生の中で実際に目にした事もない高額な現金。私の殺風景な部屋には場違いなものだった。でももはや、織り込み済みの金。たいして興味も感慨もなかった。
「じゃあ、もうひとつ、これからのビジネスパートナーとして、頼んでおいたリストを頂戴」と私は言った。
柏田は、ビジネスバックから封筒を取り出して私に差し出した。私はその一枚の紙を眺め「いくらでもいるのね。金持ちって」と言った。
「ああ、いくらでもいる。だけど、たいていは土地を持っていたり、遺産を受け継いだりしている連中だ。俺くらいだよ、裸一貫で稼いだのは」と柏田は言った。
「そこだけは尊敬するわ。だから、あなたを選んだのよ」
「鮎川ではなく、俺だったんだな」
「勘違いしないで。鮎川さんは不向きなだけよ。たった一回私と寝ただけで、あなたは鮎川さんを越えられないわ。足元にも及ばない。あなたと寝たのは、レクチャーのためだけの行為。アユミをあなたに夢中にさせるために、あなたには訓練が必要だった。あなたのスキルと経験の無さは、やる前からわかっていた。私の男はあくまで、鮎川さんよ。何を外しても必要なの。あたなの代わりはいくらでもいるわ。だから、鮎川さんを馬鹿にするような言い方を私は許さない」
「そう、つっかかるな。君には感謝している。金には代えられないくらい、貴重なものだ。この金でも安いと正直思っている。この年で諦めていたものが、手に入ったんだからな。それに良いビジネスモデルだとも思うよ。高収入中年男性と若くて綺麗な女子とのマッチング。俺と君が組んだら、大きな収入になる。俺は今まで以上の生活が出来て、君は鮎川と十分な暮らしが出来る。適齢期をとうに超えた不幸な中年童貞を救える。良い生活を夢見るけど、出口の見えない若い女性も救える。誰もが幸せになれる。誰も不利益をこうむらない。少子化に歯止めがきく。ブライダル産業にも貢献出来る」
「結婚式場からのマージンは折半で良いわ。紹介してもらった男からは、私が七割もらうけど、それで構わないわね?教育費込みで。身体を張ってるんだから、それでも少ないくらいよ。あなたは、知人を私に紹介するだけ。楽なものだわ。私がリスクと労力を負うの。問題は無いわよね?それと、マサト君への手切れ金、私が身体で立て替えてるの。今度、持ってきて頂戴。百万円。アユミと土産を持ってきた時に忍ばせておいて」
柏田は、私の提案が上手く理解できない様子だった。しばらく私を生気の無いよどんだ目で見ていた。ようやく理解できると今度は私を、汚い物でも見るみたいに無遠慮な視線で下から上まで舐め上げ、それが終わると「ああ。異存はないよ」と言って、再び下を向いた。柏田は私の足を見ていた。長い間、海を漂流して、ようやく海岸にたどり着いた流木でも眺めるみたいにじっと。そして自分を無理やり納得させるかのように何度も頷くと、ゆっくりと顔を上げて、私を真っ直ぐ見た。そして口を開いた。
「ひとつ、聞いても良いか?」まるでこれが最後の別れとでも言うかのような台詞。
「何かしら?」と私。答えるつもりはないのだけれど。
「このアイデアを思いついたのは、いつなんだ?こんな手のこんだ事をどうやって考えた?」
「それは、どういった好奇心からかしら。ビジネス?それともプライベート?」
「ビジネスだ」と柏田は言った。この男の頭の中は仕事の事しかないらしい。結婚を金で買う男だ。次の仕事にでも役立てようというのだろう。見上げた精神だ。こうでないと、金は貯まらないのだろう。だけど悲しい男。愛さえも、買う男。そして買えてしまう現実。本当に悲しいのはその現実かもしれない。
「あなたに見せたでしょ。私とアユミが交わしたメールの全てを。最初の出会いから最後の一行まで。あなたに、アユミがどんな女であるかを知ってもらうために。『もう、私たち、無理かも……』というメールが送られてきたときよ。私はその夜、鮎川さんに抱かれながら思いついたの。何かが降りてきて、私にとりつくみたいに、ひらめいたのよ。アユミを利用することを。ひどい女。そう思ってもらって、構わないわ。ただ一人の大切な友達を騙すようなことをして。でもね、私は誰も不幸にはしていないわ。みんなを幸せにしてる。マサト君はアユミと別れて自由になりたがっていたし、アユミは結婚をして安定を欲しがっていた。あなたは若くて無垢で、結婚できる女なら誰だってよかった。なのに誰も何もしなかった。動かず、指をくわえてじっと見ているだけで、人生を傍観していた。そんな自由さえ奪われた者が居るのに。だから私が動いたの。代わりに必死になって。動きながら考え、考えてはまた動いた。動かない事には、状況が変わらない事だけは、わかっていたから。上手く行ったわ。上手く行ったでしょ?笑っちゃうくらい。あなたはノコノコと金を持ってくるし、アユミは幸せなメールを何通もくれた。マサトくんは心配性のアユミから解放されて、何人もの女とつきあってる。傷ついたのは、私一人よ。私一人が動き回って、傷ついた。これでも傷ついてるの。理解出来ないでしょうけど。これでもぎりぎりでやってるの。限界に近いの。それにね、あなたは誰も不利益をこうむらないと言うけど、私は大切なものを失ったの。あなたにこの気持ちがわかる?」
私が本当に心から欲しかったもの。途中で気が付いた。あの温泉の夜。いや、最初から分かっていたのかもしれない。ただ、気が付かないふりをしていただけだ。そんなはずはないと。でもダメだった。目を背ければ背けるほど、それは目の前を覆った。私の心にガンガンと打ち付けた。隠せば隠すほど、くっきりと姿を現し、止める事が出来なかった。そして後戻りも出来なくなっていた。
出来る事なら、今、全部壊してしまいたかった。全部壊して、私は取りたかった。私の本当に欲するものを、初めて心から欲しいと思ったものを、鷲掴みにして、我が物にしたい。でも、出来なかった。何故?それほどまでに律儀に義理を通さなくてはいけないものがあった?私は何を選び、何を捨てたのか。結局はこの連中と同じだ。いつの間にか傍観していた。流れに身を任せてしまった。
私が本当に欲しかったもの。それを、柏田。あんたは金で手に入れた。全てを叩き付けたかった。全部、振り出しに戻したかった。私は、積みあがった札束を全部、床に叩き付けたかった。叩き付けて、返してほしかった。私の大事なものを。
アユミ。アユミが欲しい。アユミを返せ。綺麗なアユミ。綺麗なだけじゃない。繊細で傷つきやすく、壊れてしまいそうなくらいもろいアユミ。私が包んであげたかった。私から溢れるもの全てで覆い尽くしてしまいたかった。アユミの全てを征服したかった。二人でドロドロになりたかった。アユミの心の糧になりたかった。愛し合いたかった。アユミ。私はあなたを裏切った。こんな金の為に。こんなものが欲しかった訳じゃない。見たこともないような現金だけど、アユミと取って変わるものではない。どうしてこんなことをしたんだろう。間が差した訳ではない。流れに身を任せた訳でもない。ただ、こうなってしまった。逆らえなかった。気が付くのが遅かった?全ては承知していたはずだ。心のどこかで、仕方ないと思っていたはずだ。止めようと思えば止められていた。でも、止めなかった。私の中にある汚れた心がそうさせた。どうしようもなく汚れてしまった心。淫らで逆らえない弱い心。ずっと私を支配し、服従させていたもの。わかっている。わかっているんだ。ずっと隠し通せるものではないことも。あの男の段取りが上手く行かなくて客が取れず、あの男が私を抱くとき、私は、深くイッた。あの男のやり方は武骨で乱暴で、優しさのかけらもなかったのだけれど、あの男に触れられると、身の毛もよだつのだけれど、あの男の指が膣の中に挿入された瞬間、私はどうしようもなく淫らになり、直ぐにいってしまう。それがなぜだかはわからない。最初にオナニーをしているのを見られてしまったからかもしれないし、ただ単に私の身体が変態だからなのかもしれない。だけど、あの男の指を私は欲した。心では嫌だと言っているのに、身体がそれを求めた。
深呼吸をした。僅かな新札のにおい。私はその上に手を置いた。暖かかった。ぬくもりがあるんだ。気持ちの無いものでも、暖かいんだと思った。込みあがってきていたものが次第に収まった。そしてゆっくりと降りて行った。
私は大切なものを失ってしまった。永遠に。あとには何が残ったのだろう?私が得たもの。私が手に入れたもの。あの四十をとうに超えて、理不尽な理由でぼろ雑巾のように捨てられた種無し男。世間の荒波に耐えられず、傍観する側に回った男。鮎川さんだけだ。鮎川さんのぬくもり。鮎川さんの心。年よりも若く見えるし、何よりも私を感じさせてくれる。私を快楽へ導いてくれる。優しく、そしてきっちりと。そして助けてくれた。あの地獄のような毎日から。ただ己の欲望を満たすだけの稚拙で乱暴で自己中心的な性行為から。汚れのこびりついた私の人生の中で唯一、淀みない純粋なものを与えてくれた。鮎川さん。麻薬のようにとりつき、澱のようにこびりついたものを、丁寧にはがせてくれた鮎川さん。鮎川さんが必要なのだ。あの男から本当の意味で逃れるために。あの男が私を触れる手から逃れる為に。私のドロドロとした本能を永遠に封じ込める為に。
柏田を見た。うなだれて、さっきから動こうとしない。私はこの男とも寝た。これから、私は何人の男と寝るのだろう。何人の男と、気持ちの無いセックスをするのだろう。鮎川さんが全てを知った時、それでも私を求めてくれるだろうか。本当の私を知った時、あの人は私を全部受け入れてくれるのだろうか。きっとあの人は求めてくれるだろう。私の想像の枠を超えて、私がちっぽけな存在になるくらい大きな愛で私を包んでくれるだろう。それが私にはわかる。それが鮎川さんなんだ。それが、私達が出会った理由なんだ。会いたかった。無性に会いたくなった。今すぐ包まれたかった。今、会いたい。あって許されたい。全てのものから。そして求められたかった。契約を破棄し、私をここから連れ出してほしい。どこか遠いところへ。
# by haru_ki_0207 | 2011-03-20 15:29 | SNS