◆10 この不確かな世界で
夜、鮎川さんのマンションに行った。
「今日は、約束の日じゃないだろう?」と鮎川さんは私の顔をみるなりびっくりして言った。
「良いの。もう良いのよ。これから、毎日来るわ。迷惑だって言われても、ダメよ。決めたの。たった今、決めた。私の側に居て。一生側に居て私を守って。私もあなたを全力で守るから。見つけたのよ。あなたの中に、私の場所を。気が付いたの。今までどこを見ていたのかしら。どこに目を付けていたのかしらね。子供なんていらない。私達には必要ないわ。税金をたくさん納めて、作れる人に作ってもらいましょうよ。お金を貯めて、いつか何処か遠い国に行って、ささやかに暮らしましょう。そうしたいの、良いでしょ?」
私は鮎川さんの胸に飛び込んだ。新札とは比べものにならないくらい、暖かだった。もう、何も要らない。そう思った。
だけど、後ろから物音がした。不自然な音。今までとは異質な、存在する音。私は鮎川さんの胸から身体を離した。そして振り返った。それを確かめるために。でも、私は解っていたのかもしれない。今になってみたらそう思う。その存在が誰だったのか、振り返るずっと前から。
アユミの当惑した顔が私の見た最初のものだ。愛しかったアユミ。欲しかったアユミ。そして諦めたアユミ。アユミは、豊かな胸をバスローブで包み、濡れた髪を肩に落とし、顔を上気させ、いつもはくっきりとした目をうつろに泳がせ、私と視線を合わせようとはしなかった。ぽたぽたと、濡れたアユミからしずくが落ちる音が聞こえる。その音を私たち三人はしばらく聞いていた。
「アユミがどうしてここにいるの?」私は誰に向かってしゃべっているのだろう。アユミに?鮎川さんに?私の声は小さく、ただそのしずくみたいに、口からこぼれていくだけだった。
「いつからなの?」しずくの音は、私の混乱とは無関係に続いた。私の声は、そのしずくの音をかき消すことは出来なかった。
鮎川さんが私に触ろうとした。乾いた私達と濡れたアユミ。
「どうしてここにアユミが居るの?」私は鮎川さんの手を振りほどき、ガラスが震えるほど大きな声で怒鳴った。しずくの音は止んだ。一瞬、時間が止まったのかもしれない。膨張し、ゆっくりと流れ、全てが現実的ではなかった。
「愛してるんだ」と鮎川さんは言った。しっかりとした低い声だった。いつもの穏やかな声。いつも私を安心させていた、私を救ってくれた声。でも、目の前にはアユミが居た。誰に向かって言っているのかわからなかった。いったい、あなはたは、誰を愛しているの?鮎川さん。
「ずっと前から愛しているんだ」鮎川さんはもう一度、はっきりと言った。
私の正面に立ち、私の肩を両手で押さえ、私の目を見つめた。目の奥がちりちりと痛んだ。頭の後ろに突き抜けてしまうような視線。まるで重さを持っているようなその力が私の意識をはっきりとさせた。間延びした時間が収縮し、ちゃんとした時を刻み始めた。
「愛しているんだ。のりこ」
のりこ。私の名前。私の本名。私の過去。私の本当の姿。
「ずっと前から君を見ていたんだ。僕らがネットで知り合うずっと前から。僕は君を知っていた。何もかも知ってるんだ。君が以前、何処に住んでいたのか。父親が誰で、誰とどんなふうに住んでいたのか」
訳がわからなくなった。今までの鮎川さんとはまるで違っていた。あの純粋で素朴ではかなげな鮎川さんはそこには居なかった。今、私の目の前に居るのは、世間の荒波に揉まれ、タフで器用で、そして一方的な手段で私を欺き、不当な方法で私を陥れ、そして私の心を奪った男だった。
「隣の市に仕事で行ったときに偶然、君を見かけた。君が今、いつも使っているコーヒーショップと同じ名前の店だ。君は泣いていた。通りを見ながら、目に涙をいっぱいに溜めて、こぼれ落ちるしずくを拭おうともせずボロボロと泣いていた。まるで、自分が泣いていることに気がつかないで居るみたいに見えた。僕は隣に座っていた。そして黙って見ていた。見る事しか出来なかった。慰めの言葉は見つからなかった。何も頭には浮かんでこなかった。だけど、それは最初から決まっていたように感じた。朝、起きて、僕はこの場に来るべきだと感じていたんだ。だから、僕はとても自然に受け止める事が出来た。君が僕の隣で泣いている事実を。僕は君が立ち上がると、後を付けた。足が勝手に動いていたんだ。そこには理性や思考というのもが割って入る事は出来なかった。君をもっと知る以外に僕には取るべき道はなかった。君の素性は興信所に依頼して調べてもらった。とても辛い目にあってる事を知った。どうしても君と友達になりたかった。そして救いたかった。
アユミに頼んだ。君と知り合いになるために。愛人だったアユミを使った。アユミに君と友達になってもらって、僕は君の情報を得た。君を知ってから、アユミとの肉体関係は終わりにしてもらった。手切れ金も払った。でも、君とアユミがずっと友達関係が続いているとは知らなかった。そしてまさか、アユミが旅行にまでついてくるとは。それを知った時、何故か止められなかった。どうしてだろう。柏田に勝てた気がしたのかな。ずっと劣等感のあった柏田に、何か一つくらい、勝ちたかったのかもしれない。柏田はアユミと僕の事はもちろん知らない。今日も、こうなるはずではなかった。新婚旅行が終わって、アユミは真っ直ぐここへ来たんだ。柏田に急用が出来てたからといって。時間をつぶすために。シャワーを勧めた。とても疲れていたから。ただ、僕たちの間にはもう、何もない。君を裏切るような事は何もないんだ。だけど、ずっと君を裏切り続けてきたことは事実だ。君を騙すようなことをしてしまった。でも、運命なんだ。君と僕があの場所で会ったことがそれを証明している。君が必要なんだ。君をずっと……」
この複雑な世界で、信じれるものがあるとしたら、それは何だろう?この情報の溢れた不確かな時代に、私は唯一信頼していたものを無くしてしまった。欺いたつもりが欺かれていた。私の手の中に鮎川さんが居て、鮎川さんの手の中に私は居た。そして二人とも、全てを理解出来ずに居たんだ。それは何処までも続く万華鏡にも、どこまでも膨張する宇宙にも思えた。いつまでたっても実態が浮かび上がってこない。そして最後まで、私がこの世の中にいなくなっても出てはこないのかもしれない。でも、私は真実を追いかけるんだと思う。どんなに世界が危うくても不確かでも、真実なんて存在しなくても私は、探し続けると思う。その中に、彼の中に、少しでも私に向かうものがあるのなら。
鮎川さんは私に向かって、何かを語り続けている。それは言い訳でしかないのだろう。だけど私に向かっている。光を曲げる重力みたいに何かを曲げようとしている。でも、その力が重要なんだと思うんだ。私に向かってくる力。私を変えようとしている力。それは私の為なんでしょ?鮎川さん。アユミの顔がみえる。愛しかったアユミが今では、霞んで見える。
「鮎川さん。私もあなたに話さなくてはいけないことがあるの」と私は言った。今は、鮎川さんしか見えない。
追伸。
読者へ。混乱させてしまってごめんなさい。でも本当に混乱しているのは、私自身なのです。
おわり
夜、鮎川さんのマンションに行った。
「今日は、約束の日じゃないだろう?」と鮎川さんは私の顔をみるなりびっくりして言った。
「良いの。もう良いのよ。これから、毎日来るわ。迷惑だって言われても、ダメよ。決めたの。たった今、決めた。私の側に居て。一生側に居て私を守って。私もあなたを全力で守るから。見つけたのよ。あなたの中に、私の場所を。気が付いたの。今までどこを見ていたのかしら。どこに目を付けていたのかしらね。子供なんていらない。私達には必要ないわ。税金をたくさん納めて、作れる人に作ってもらいましょうよ。お金を貯めて、いつか何処か遠い国に行って、ささやかに暮らしましょう。そうしたいの、良いでしょ?」
私は鮎川さんの胸に飛び込んだ。新札とは比べものにならないくらい、暖かだった。もう、何も要らない。そう思った。
だけど、後ろから物音がした。不自然な音。今までとは異質な、存在する音。私は鮎川さんの胸から身体を離した。そして振り返った。それを確かめるために。でも、私は解っていたのかもしれない。今になってみたらそう思う。その存在が誰だったのか、振り返るずっと前から。
アユミの当惑した顔が私の見た最初のものだ。愛しかったアユミ。欲しかったアユミ。そして諦めたアユミ。アユミは、豊かな胸をバスローブで包み、濡れた髪を肩に落とし、顔を上気させ、いつもはくっきりとした目をうつろに泳がせ、私と視線を合わせようとはしなかった。ぽたぽたと、濡れたアユミからしずくが落ちる音が聞こえる。その音を私たち三人はしばらく聞いていた。
「アユミがどうしてここにいるの?」私は誰に向かってしゃべっているのだろう。アユミに?鮎川さんに?私の声は小さく、ただそのしずくみたいに、口からこぼれていくだけだった。
「いつからなの?」しずくの音は、私の混乱とは無関係に続いた。私の声は、そのしずくの音をかき消すことは出来なかった。
鮎川さんが私に触ろうとした。乾いた私達と濡れたアユミ。
「どうしてここにアユミが居るの?」私は鮎川さんの手を振りほどき、ガラスが震えるほど大きな声で怒鳴った。しずくの音は止んだ。一瞬、時間が止まったのかもしれない。膨張し、ゆっくりと流れ、全てが現実的ではなかった。
「愛してるんだ」と鮎川さんは言った。しっかりとした低い声だった。いつもの穏やかな声。いつも私を安心させていた、私を救ってくれた声。でも、目の前にはアユミが居た。誰に向かって言っているのかわからなかった。いったい、あなはたは、誰を愛しているの?鮎川さん。
「ずっと前から愛しているんだ」鮎川さんはもう一度、はっきりと言った。
私の正面に立ち、私の肩を両手で押さえ、私の目を見つめた。目の奥がちりちりと痛んだ。頭の後ろに突き抜けてしまうような視線。まるで重さを持っているようなその力が私の意識をはっきりとさせた。間延びした時間が収縮し、ちゃんとした時を刻み始めた。
「愛しているんだ。のりこ」
のりこ。私の名前。私の本名。私の過去。私の本当の姿。
「ずっと前から君を見ていたんだ。僕らがネットで知り合うずっと前から。僕は君を知っていた。何もかも知ってるんだ。君が以前、何処に住んでいたのか。父親が誰で、誰とどんなふうに住んでいたのか」
訳がわからなくなった。今までの鮎川さんとはまるで違っていた。あの純粋で素朴ではかなげな鮎川さんはそこには居なかった。今、私の目の前に居るのは、世間の荒波に揉まれ、タフで器用で、そして一方的な手段で私を欺き、不当な方法で私を陥れ、そして私の心を奪った男だった。
「隣の市に仕事で行ったときに偶然、君を見かけた。君が今、いつも使っているコーヒーショップと同じ名前の店だ。君は泣いていた。通りを見ながら、目に涙をいっぱいに溜めて、こぼれ落ちるしずくを拭おうともせずボロボロと泣いていた。まるで、自分が泣いていることに気がつかないで居るみたいに見えた。僕は隣に座っていた。そして黙って見ていた。見る事しか出来なかった。慰めの言葉は見つからなかった。何も頭には浮かんでこなかった。だけど、それは最初から決まっていたように感じた。朝、起きて、僕はこの場に来るべきだと感じていたんだ。だから、僕はとても自然に受け止める事が出来た。君が僕の隣で泣いている事実を。僕は君が立ち上がると、後を付けた。足が勝手に動いていたんだ。そこには理性や思考というのもが割って入る事は出来なかった。君をもっと知る以外に僕には取るべき道はなかった。君の素性は興信所に依頼して調べてもらった。とても辛い目にあってる事を知った。どうしても君と友達になりたかった。そして救いたかった。
アユミに頼んだ。君と知り合いになるために。愛人だったアユミを使った。アユミに君と友達になってもらって、僕は君の情報を得た。君を知ってから、アユミとの肉体関係は終わりにしてもらった。手切れ金も払った。でも、君とアユミがずっと友達関係が続いているとは知らなかった。そしてまさか、アユミが旅行にまでついてくるとは。それを知った時、何故か止められなかった。どうしてだろう。柏田に勝てた気がしたのかな。ずっと劣等感のあった柏田に、何か一つくらい、勝ちたかったのかもしれない。柏田はアユミと僕の事はもちろん知らない。今日も、こうなるはずではなかった。新婚旅行が終わって、アユミは真っ直ぐここへ来たんだ。柏田に急用が出来てたからといって。時間をつぶすために。シャワーを勧めた。とても疲れていたから。ただ、僕たちの間にはもう、何もない。君を裏切るような事は何もないんだ。だけど、ずっと君を裏切り続けてきたことは事実だ。君を騙すようなことをしてしまった。でも、運命なんだ。君と僕があの場所で会ったことがそれを証明している。君が必要なんだ。君をずっと……」
この複雑な世界で、信じれるものがあるとしたら、それは何だろう?この情報の溢れた不確かな時代に、私は唯一信頼していたものを無くしてしまった。欺いたつもりが欺かれていた。私の手の中に鮎川さんが居て、鮎川さんの手の中に私は居た。そして二人とも、全てを理解出来ずに居たんだ。それは何処までも続く万華鏡にも、どこまでも膨張する宇宙にも思えた。いつまでたっても実態が浮かび上がってこない。そして最後まで、私がこの世の中にいなくなっても出てはこないのかもしれない。でも、私は真実を追いかけるんだと思う。どんなに世界が危うくても不確かでも、真実なんて存在しなくても私は、探し続けると思う。その中に、彼の中に、少しでも私に向かうものがあるのなら。
鮎川さんは私に向かって、何かを語り続けている。それは言い訳でしかないのだろう。だけど私に向かっている。光を曲げる重力みたいに何かを曲げようとしている。でも、その力が重要なんだと思うんだ。私に向かってくる力。私を変えようとしている力。それは私の為なんでしょ?鮎川さん。アユミの顔がみえる。愛しかったアユミが今では、霞んで見える。
「鮎川さん。私もあなたに話さなくてはいけないことがあるの」と私は言った。今は、鮎川さんしか見えない。
追伸。
読者へ。混乱させてしまってごめんなさい。でも本当に混乱しているのは、私自身なのです。
おわり
# by haru_ki_0207 | 2011-03-20 15:36 | SNS | Comments(0)


